国宝の姫路城を見物した後に、一旦山陽道に戻って今度は岡山県に入って先ず、播州・赤穂城を訪ねることにした。 山陽道から更に西に向かうと間もなくして赤穂ICがあり、赤穂城址は赤穂ICからは余り遠くない位の距離にあった。
赤穂ICを下りて、岡山の赤穂市の赤穂城下を目指すことにするが、その理由は勿論、ご存知の「忠臣蔵」のお膝元であり、其の赤穂城は海岸近くにあって、その石垣跡は風雨に晒されながらも当時の状態や面影をしっかりと残しているのです。
其の赤穂の藩士による仇討ち、つまり「忠臣蔵」とは、
江戸時代の中期、元禄14年(1701年)の3月のこと、此方の殿様である赤穂藩主の浅野内匠頭長矩は、天下中枢の江戸城下でも最も格式の高いとされる「殿中・松の廊下」で、高家の筆頭(幕府内の職名の一つで、儀式や典礼、朝廷からの使節などの接待、諸礼をつかさどった家柄)の吉良上野介義央に対して刃傷に及んだのである。
この行為が将軍・綱吉の怒りに触れて即日切腹、播州赤穂の浅野家はお家断絶となった。
そしてその後、翌年の元禄15年12月において、御城代の大石内蔵助を始めとして赤穂藩・家臣の47名が、吉良邸に討ち入り吉良上野介の首級を上げ、主君である浅野内匠頭の仇を討ったのである。 此れが所謂、「赤穂浪士」、「忠臣蔵」の仇討ちの物語なのである。
赤穂城の入り口面前は丸みを帯びた石碑に「赤穂城址」とあって、すぐ横に当時の詳しい説明用の看板が立っていたのです。 其の奥の方の敷地には当時の赤穂藩士の屋敷があったともされていて、 主要な当時の赤穂藩士で有る片岡源五右衛門、間瀬久太夫、磯貝十郎左衛門、其れに大石瀬左衛門等々の、御馴染みの赤穂義士の屋敷が点在するのです。
そして、更に奥の方には大石内蔵助に因んだ大石神社が有って、其の参道の両側には其々に大石良雄(内蔵助)を筆頭に47義士の石像が整然と並んでいるのです。
赤穂城は海に面した、所謂、海平城ともいわれていて、往時はお城の前は広大な砂浜が広がっていて、赤穂藩でも有名な塩田開拓が盛んに行われていた所でもあったのです。
浅野内匠頭長矩の祖父であった浅野長直(初代の赤穂藩主)は、赤穂城の築城とともに平行して城下町等の整備に当たるとともに、製塩事業である「入浜式塩田」の開拓と其の塩の流通に力を注ぎ、赤穂藩浅野家の繁栄のいしずえを築いたとされています。
一方、赤穂藩の仇敵でおあった、三州・三河の吉良家においても、同様に三河湾での製塩事業が盛んに行われ、この製塩事業や流通が浅野家と吉良家の間に確執を生み、所謂、赤穂仇討ち事件の一因にもなったとも言われているのです。